【第二話】本物のサッカーを教えてくれた監督との出会いによって起きた苦悩の中学時代

監督に怒られる経験もせず、トップ下としてスルーパスに快感を覚え、

なにもかもが楽しかった小学時代。

 

なにも考えず小学生時代の友達と同じ中学校に入学しました。

小学生時代のサッカー友達もサッカー部に入学し、もちろん自分も迷わず入部。

 

僕が幸運だったことは、3年生が入部した春先のすぐに引退したこと。

僕の中学のサッカー部では3年生が引退するまで、

1年生は隅っこのところでただただミニゲームをするという決まりだったのですが、

3年生がいないことで普通に練習に参加できるということでした。

 

そこで出会ったのが、サッカーの本物の監督でした。(以下O監督)

O監督はサッカーに確固たる考えと信念があるようで、

・中学時代はまだ技術が伸びる時期で、ボールを使わない練習はしない

・サッカーは中盤がなによりも重要で、中盤を制することがなによりも重要

・コンパクトに戦うことこそがこれからのサッカーの主流

・サッカーとは頭80%の頭脳が大事なスポーツ

などなどここに書いている何倍もの、

多くのサッカーの知識と考え方を教えてくれました。

 

ちなみにO監督は現役時代すごい選手だったらしく、

関西のサッカー選手のなかでは名前を知らない人はいないほどの有名人で、

現在のプロクラブ(当時は実業団)からもオファーがあったようです。

腰の怪我と当時の年齢を考慮して断ったようですが。

4-2-4という昔は中盤を省略したサッカーが常識のなか、

日本で中盤の重要性を唱えていた数少ない人で、

こういう意味でも先見の目が合って、今でもすごい人だと感じるばかりです。

 

 

サッカーの知識がほとんどない自分にとってO監督の指導はすべてが新鮮で、

サッカーの知識や考え方に対して頭が空っぽの状態だったので、

スポンジのごとく吸収していきました。

本物のサッカーを教えてくれたという意味で、

僕のサッカー選手としての成長は、この中学一年生のときが最も成長した年でしたね。

 

中学生となると他の小学校の選手も加わり、ライバルとなる選手も出てきます。

小学時代ガンバ大阪のユースに所属していた選手

小学時代に同じ地域で圧倒的な力を誇っていたチームでスタメンだった選手

しかもこの2人が自分と同じトップ下のポジションの選手ということで、

とても焦りました。

(このままでは試合に出られなくなる)

と思い、どうするか考えました。

 

サッカー部に入部してすぐに、

希望ポジションを書いてO監督に提出する必要があったのですが

(う~ん、う~ん、う~ん、それならポジションを一つ下げるか)

と、希望ポジションをボランチと書きました。

 

当時ピッチの中央にいないとボールに触る回数が減り、

サッカーをしていておもしろくないと考えていたので

ボランチと安易に考えて提出しました。

チームのことなど考えず、自分のボールタッチ数しか気にしていませんでした。

 

しかしこのことで、中学時代にO監督から

怒鳴り散らされることになるなんてこの時は知る由もありませんでした。

 

まずO監督から教わったのは中盤でのプレッシング。

小学時代にまったく守備をしなかった自分にとって初体験でした。

 

しかし、プレッシングの考え方からどうするかまでわかりやすく教えてくれて、

2カ月もすればマスターして、守備に関して言われることはなくなりました。

プレッシングや守り方はシメオネアトレティコそのもので、

相手チームがボールを持つとサイドに追いやり、

そこで逆のSB以外の選手全員がかたほうのサイドにスライドし、

数的有利と挟み込み、なによりスペースをつぶしてボールを奪い返すというものです。

(中学生のテクニックなんかそこまで高くないので、

これをすれば簡単にボールを奪えたものです。

プロでも通用するプレッシングなので、中学生では回避できないはずです)

 

僕がO監督から“目をつけられる”原因となったのは、攻撃面でした。

バルセロナほどとは言いませんが、ショートパスをつなぐスタイルで戦っており、

対戦相手がどれだけ自分たちの最終ラインの選手にマークがついていようが、

GKは頭を超すキックは禁止され、

ショートパスをするように制限され、パスサッカーを実践しようとしていました。

 

そこでボランチという中盤の底でプレーするときに、O監督に言われたことは

「このポジションはチームの要のポジションだ。

試合を作るのも壊すのもこの選手にかかっている。

だから、“試合を作るためにもパスはすべて2タッチ以内で回せ”

 

この指示がなによりも難しいということをその時の自分はまだ知りませんでした。

小学生時代はスルーパスを通すこと以外しておらず、

ボールタッチ数も気にしたことがなく、

スルーパスを通してチャンスになればそれでOKでしょと思っていたからです。

 

そこからO監督の怒鳴りが耳に入ってくることになるのです。

3タッチ以上したら基本的に注意され、

ダイレクトパスの時に状況判断できず2タッチになったら

「そこワンタッチだろうが~!!!」(←マジでこの言い方です)

と、練習中、試合中に何度も僕に対して怒鳴ってきます。

 

現在の僕ならこれができていないからこれができないという、

悪い部分をピックアップし、まず何をするべきかを考えて最終的に解決策は思いつくのですが、

その当時は何も知らないので解決策がまったく思いつかない。

 

試合でこんなこともありました。

前半でほぼすべて1タッチか2タッチでパスを回して、心の中で

(いいかんじ。今日は一度も怒鳴られてないぞ。)

と思いながらベンチに下がると、ハーフタイムの次の指示は

「後半はほぼすべて1タッチでパス回してみろ!」

(やってやろうじゃんか!)

と気合いを入れて後半に挑むのですが、

できるわけもなく、この指示で後半に大崩れで、また怒鳴られる。

(プロ選手でもこの指示はムリがある気もしますが、ブスケツなら可能かな…)

 

小学時代までだれからも怒鳴られる体験をしてこなかったので、

怒鳴られることで委縮してしまい、さらにプレーが悪くなる。

そしてO監督のお決まりの怒鳴り発生。

 

当時はもはや抜けられない怒鳴りのスパイラルのように感じていました。

O監督が“本物の鬼”のようにみえ、

自分の年代でこれだけ指示されて怒鳴られているのは自分だけで、

他の選手はこんな指示をされておらず理不尽だとも感じていました。

 

今考えれば期待されての指示だと思うのですが、当時は本当に

「意味わからん、マジふざけんなよ。他の選手にも同じ注意しろよ!」

とよく友達に愚痴をこぼしたものです。

(あまりにも腹が立って殺気だっていたときもありました)

何度もサッカー部を辞めようと思いました。

しかし、意気地がなく辞めるということもできませんでした。

 

 

そんな選手生活が1年半過ぎ、

突如自分はフォワードにポジション変更されました。

4-2-3-1のシステムをO監督は気に入って採用しており、

次はやったこともないセンターフォワードに苦悩の時期を過ごすことになります。

 

チームのセンターフォワードの役割はポストプレーだったのですが、

やったことのないポジションで動きかたがまったく分からない。

 

それでも僕が幸運だったと思うのは、

O監督にサッカー全般について何か質問すると、

必ず何かの回答をしてくれたことでした。

それも包み隠さずすべて教えてくれました。

 

僕はこのときまでなにも考えずに生活していましたが、

なにか行動する時には理由や根拠がないと動きたくないという人間でした。

サッカーの動きやプレーに対してその理由や根拠も教えてくれて、

僕のサッカーの知識や考え方はここで教わったのだと改めて思います。

 

センターフォワードとしての動きにも少しずつ慣れてきましたが、

最大の苦悩は、ゴールが奪えないことです。

もともと小学時代からパスに面白さを感じていたので、

ゴールを決めてもたいして嬉しくないということもあり、

ゴール前でパスをするというのはしょっちゅうでした。

 

また、対戦相手が強いとゴール前でシュートチャンスはほとんど訪れず、

完全に自分の力不足だと感じていましたが、いかんせん解決策が思いつかない。

(今の自分だったらこうすればいいとアドバイス送れるのに!)

 

センターフォワードとして約1年プレーしてゴールもそれなりに記録しましたが、

強豪校相手にはほぼノーゴールだったと記憶しています。

この経験からプロでもビッグマッチになるとまったく活躍できない選手がいると思いますが、

「実力不足」とシンプルに考えています。

1試合の活躍という意味ではなく、長い目で見た活躍という意味ですよ。

 

 

中学3年間ではO監督からサッカーに対する多くのことを学べました。その経験から

「なにか知らないものを教えてもらうときは、詳しい人(専門家)に教わるのが一番」

また、

「1つの分野に対して、1人の人物から教わるのは2年くらいが限界」

ということも感じました。

 

僕のサッカーの考え方は今ふりかえると中学1年生の時にほぼ固まりましたし、

中学2年生の時に新しく得たのはセンターフォワードとしてのプレーくらいでした。

ボランチのときは本当にずっと“2タッチ以内でパスを回せ”

という意図の怒鳴りしかなかったからです。

 

 

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中学校のサッカー部ではないトレセンでの苦悩

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僕は中学校のサッカー部を3年間続けていましたが、

それと並行してトレセンと呼ばれる地区の選抜メンバーとしても活動していました。

トレセンの目的は有望なサッカー選手の、選手強化にあるのでしょう。

 

大阪を8地区に分けた1つの地区の選抜メンバーで、

1年生の時から3年生までこちらも3年間活動。

 

1年生の時は150名ほどから16名だけ選抜され、

まぁまぁの狭き門ですが、なぜか選抜されていました。

 

そこでも練習を積み重ねるのですが、

あまりの選手のレベルの高さに、自分の実力を恥ずかしいと感じていました。

 

小学時代から基礎練習というものをほとんどしたことがなかった自分より、

ボールコントロールや足元の技術がけた違いに高いのです。

(中学に入学した時にリフティング20回くらいしかできなかった記憶が…)

 

所属チームではエース級の選手が選抜されており、

僕たちのような普通の学校だけではなく、

地区内にあるクラブチームからも選抜されているのです。

 

練習の時から、いかに下手なのがばれないようにするか考え練習していました。

(本末転倒ですね。サッカー選手としての強化が目的のはずなのに^^)

 

また、小学時代は友達が自動にできて、そのまま中学校に入ったので、

新しく友達を作るにはどうすればいいかわからず、

チームメイトになかなか溶け込めませんでした。

練習10回目くらいまでは1日に、一言二言しか話せませんでした。

今でも初対面の人との会話が苦手なのは変わっていませんが^^

俗にいうコミュ障なのかもしれません。

 

1年生の時は、本当にチームの練習についていくのがやっとでした。

対人関係では話せる人が少なく苦労しましたし、

サッカーではチームで一番下手と呼べるくらいのレベルでした。

(中盤の選手で一番下手は今ならヤバイ気がしますね)

 

このチームで幸運だったのは、

チームの戦い方が自分の中学と全く同じだったことです。

それもそのはず、中学校のO監督がこのチームの第2監督だったから。

O監督はトレセンの時はあまり怒鳴ることがなかったので助かりました。

 

チームの戦い方で他の選手は苦労する部分があったようですが、

僕はそんなことなくチームの動きとしては機能していたはずです。

 

それでもいかんせん足元の技術というのはごまかせるものではなく、

どうしても中学校のチームの時と同様に、

2タッチ以内でパスを回すことができませんでした。

 

中学校と同じくボランチでプレーしており、そこで僕がとった行動は、

超守備的な役割に変更しました。

 

攻撃では前の選手のためにスペースやパスコースを作るための動きをし、

自分はボールに極力触れない。

自分がフリーの場合はボールを受けようとしますが、

それ以外の時は攻撃に関与しない、とこのチームでは決めたのです。

 

サッカー選手として大きく成長を期待できる中学生という年代において、

この判断は間違っていたのかもしれませんが、

チームのためにはこれが一番と考えていました。

 

小学時代、そして中学に入ったばかりの時は自分勝手にプレーしていましたが、

このトレセンに入り、自分が下手な存在となったことで、

「選手には特徴があって、その役割を担うだけでチームのためになる」

ということを学べました。

 

トレセンとして選抜メンバーになる選手は、自分のチームではエース級ですから、

守備ができない選手が多かったのです。

また、僕は中学生にしては背が高かった方で、

横幅の体のサイズもあり、体の当たりなら同年代でほぼ負けることもありませんでした。

僕は中学で初めて守備をしましたが、そこでプレッシングとともに急成長して、

トレセンの中盤の選手の中では1番か2番目の守備力を誇っていました。

 

途中からトレセンの中での自分の役割は完全に守備の人となりました。

攻撃は本当に自分の実力では歯が立たないほどみんなうまかったので、

攻撃はうまいチームメイトに任せて、

僕はチームの中で一番うまい人にパスを回すことに尽力しました。

 

こうしてサッカー選手として居場所が作れ始めたころから友達もでき、

少しずつトレセンの練習というのが楽しくなってきました。

 

 

トレセンには1年に1回、地区同士の大会があり、

大阪では8地区の中で上位2チームが関西大会進出というのがありました。

4チーム2グループに分けての総当たり戦、お互いの1位と2位が対戦し、

勝利した2チームが関西大会進出というものでした。

 

僕たちの地区は最弱と呼ばれる地区で、

1年生の時はまぁ惨敗で1分2敗とグループリーグ敗退。

最弱と呼ばれるだけあって当然の結果と言われれば当然の結果。

 

2年生の時は1勝1分1敗と勝ち点で並びましたが、得失点差でグループリーグ敗退。

この1敗は三島トレセン(この年のトレセン全国大会の優勝チーム)と呼ばれる、

ガンバユースの選手が数多く在籍しており、

僕は19歳で日本のフル代表に呼ばれた選手のマークを任されました。

しかし何もできずの1対6という完全なる大敗の衝撃は、今でも忘れられません。

まるで赤子扱いで、本当にやりたい放題やられ、

バルセロナ対アマチュアチームの対戦ぐらい実力差があったと思います。

ちなみに19歳で日本代表の選手とは、幼稚園が同じだったということを後で聞かされました。

 

3年生の時は2勝1敗の2位通過でグループリーグ突破を決め、

違うほうのグループ1位は三島トレセンでした。

2年の時のリベンジだ~と思ってチームは気合いが入りまくりでした。

そして試合前にわかったのですが、

なんと三島トレセンのガンバユース選手は全員来ていないようでした。僕らは

(マジなめんなよ!ここで負かして笑いものにしてやる!)

とさらに気合いを高めて試合に挑みました。

 

結果は0対6の惨敗。ベンチメンバー相手に完全に試合を支配され完敗でした。

(こいつらマジか、実力高すぎてヤバすぎる!)

と思いながら試合をしていました。

ベンチメンバーでも、実力の差に違いがあり過ぎたようです。

 

この3年の時のベンチメンバーでの大敗、そして2年の時の大敗も含めて

「サッカーというのは選手の力が勝敗を分けるスポーツなんだ」

ということを学べました。

 

日本ではサッカーはチームスポーツで、

協力し合って戦うものだという風潮がありますが、僕の中では

「サッカーだけでなくほとんどのスポーツでは、個の力が何よりも重要なんだ!」

と感じています。

 

個の力なしに強いチームに勝つのは困難で、

サッカーでは時より勝つことがありますが、

それは数回、いや十数回の一回でしかないのだろうという考えを持つようになりました。

 

僕の体験ではひとつ上の学年と十数回もの練習試合をしたのですが、

そのほとんどが0対6というような大敗のスコアでした。

しかし、一度だけ1対0で勝利したことがありました。

それでも試合内容はいつもと何も変わらず惨敗で、ただ相手がシュートを外したり

最後のところで精度を欠いただけという勝利でした。

 

「選手の力はチーム力とほぼ同じで、だからこそ良い選手がいるチームは強い」

バルセロナには良い選手が多くいるので、勝つのも当然なんだと思っています。

 

中学時代はサッカー部でもトレセンでもプレー面で苦悩し、

当時は解決できなかったこともありましたがなんとかやってきました。

恩師とも呼べる本物のサッカーを教えてくれたO監督には感謝で、

今ではもっと質問したりして、学んでおくべきだったと思っています。

また、O監督に“目をつけられる”と表現していましたが、本当は

“目をかけられていた”ということは大人になってから理解できました。

 

 

次は高校時代のお話しで、これまで僕の得たサッカーの話が全く通じないという、

大きな挫折感を味わうお話になります。

コチラになります

↓↓↓↓↓

【第三話】サッカー観が全く違い話ができず、やっていけないと絶望感を覚えた高校時代

 
 

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